自分というかこのぐらいの年代の人はみんなかもしれない

不安で不安で仕方ないのは自分だけであろうか?


人生に先が見えない、そしてこれから何をしていけばいいのかわからないし、どうしていけるかも見えない。


そんな中、とりあえず就職活動を行い自分の方向性を定め、結局院試に切り替えたわけだけども、院試では自分の専門性についてと向き合う。

でもこれは正しいかわからないし、もはやそれを考えることすら無意味に感じる。


結局社会人の人からすればこんな考えは彼らからしてみると「非常に小さいこと」である。というかよくそういわれる。これは別に結局よくある社会人と学生の違いで、大人は何にも考えてない!っていう議論をしたいのではなく、たしかにそうなんだと思う。だから大局的にみれば、私がどこに就職しようが、どこの大学院に進学しようが別にどうでもいいことなんだろう。

常に上を見据えて生きていきたいというのは私の信条であり、それをもとに行動をしてきた。今の大学も、イントラとしても、上に行く通過点にしかすぎないのだ。

ただ上が見えない。何を上とするのか、何を成功とするのか、何を勝利とするのか、それが定まっていないのが現状だ。


自分の座右の銘を聞かれたら「負けていい勝負はない」というぐらい負けず嫌いな自分だが、そもそも今までは勝ち負けがはっきりする世界だった。


例えば甲子園を目指していた頃だって、いかに甲子園出る高校に勝てるかを考えて練習し、努力した。大学受験では京都大学をめざし、努力をした。他にはなんだっていい、就職活動では自分の希望する企業に入れるよう努力した。

そこにはできる、できないという単純な2項対立が存在したのだ。でも今は違う。正解はない世界でいきていかなくてはいけない段階へと今たたされているのだ。


結局ゆとり教育とはこんな私のような状況になった時に立ち向かえる、考えられる、そういった人間を輩出するために考えられた政策であって(と表向きはそうなっているよね?)、これから世界で生きていくためにはそこを考えられないといけないのだ。



単純に自分の趣味や自分の興味というものから始まっていくものなのだろうけど、安易には決められないとも思う。だから時間が欲しいのだ。勉強する時間、世界を見る時間。

この前バイト先の新MGと話した時に「研究はこういう仕事とは違うよね?」と、まあ単純に言うと褒められていたわけだけども、でも私にはこういったイントラとしての自分も好きだし、理系として学問を学び、実践していくものも好きだ。自分がどちらに向いているか、それを考えているわけだ。どっちが偉いなんて当然ないって誰がみてもわかるし、考えられる。でもそれをどっちもやって、結局同じ結論に達するのとでは深さが違う。例えるならば公式の暗記と公式の導出からの理解は、全く理解が別物なのだ。

当然イントラとして社会人になることも捨てていない。それが自分にとって世界で活躍していけるフィールドであれば、全く構わないのだ。(当然今の考えでは、そう思っていないからイントラになっていないわけであり、これからイントラとしてやっていくつもりもないのだが)


もっと勉強したいし、もっと時間が欲しい。就職活動で学び、そして院に進もうと決めた理由だ。だから今はとりあえず時間がほしいのだ。