勝負とは


高校野球では見逃し三振は悪いと強調しすぎる傾向がある。


そして大抵の監督は、見逃し三振をすると本当に選手をどなりつける。

大会の開会式でさえ、「見逃し三振といった・・・」などと言い、見逃し三振はよくないことだという。



果たして本当にそうなのか?


僕は違うと思う。もちろん消極的な見逃し三振は叱るべき対象だが、積極的な見逃し三振はとがめる必要はない。


ここでいう消極的というのは


「何が狙いでわからず、何も決めていないまま打席に入り気がついたら見逃し三振をしてしまった」


ということである。

そもそも何故見逃し三振がいけないかといわれるようになったかというと、


「失敗をしないといけないスポーツ」である野球で、見逃し三振というのは何も学べない。なおかつ逃げの姿勢が感じられる。とのことである。



僕がいう積極的とは


「経験からきたヤマをはり、捕手に裏をかかれて手がでなかった」


ということである。これは見逃し三振をしないようにして、逆に意識をすべての球に対応させようとしているよりはよっぽどいい方法だとおもう。

たしかにすべての球に意識をおいておけばある程度対応できるだろう。でもそこから投手を打ち崩すまでにはいたらない。

それに意識をすべての球に対応させて、毎回ヒットが打てる選手などいない。イチローや松井といった選手以外は。だから、時にはこういう『勝負』も必要なのだ。

もちろん意識をすべての球に対応させるとヒットがでないことはない。しかし「進歩」がないのだ。盲点となったところにきてヒットがでなく、空振り三振。



ここで例としてフォークボールが良い投手と対戦した場合、打者はどうするか。もちろん2ストライクまではいつもの意識でいいだろう。だが追い込まれた場合


フォークで三振にとるか

それともストレートでくるか


と考える。ここで「見逃し三振をしたくない」という心理が働くとこうなる


ストレートに意識をあわせよう。そうすればフォークがきたとき手が出る。


もちろん打席に入ったことがある人ならわかるが、フォークの良い投手と対戦した場合、これで打てるはずがない。現楽天の野村監督は清原選手を進歩のない例としてあげているが、僕もそうおもう。たしかに打撃センスは飛びぬけたものがあるが、いつも三振するときは同じような球。あの清原でさえ、ワンバンするようなフォークに手をだすのだから、ストレートに意識を合わせている人はボールになる変化球に手をださないわけがない。ここは逆に


今日、フォークの調子がよさそうだ。だったらここはフォークを投げるだろう。じゃあフォークを打とう。


と決めることだ。これは決断だ。勝負の世界は勝つか負けるか。決断が必要な場面もある。

仮にストレートが来た場合、変化球を待っている打者は手も足もでないだろう。おそらくバットが動かないで、三振になる。これが見逃し三振になったとしても、仕方がない。その選手は「投手のフォークの調子がいい」という事実から「じゃあフォークを投げてくる」という決断をしたからである。経験から、ヤマをはる。これはどんな勝負の世界でも必要なことだ。



野球は打者と投手の勝負だ。それが試合の勝敗をきめる。


見逃し三振をしたから・・・とかいって怒ることはあってはいけない。選手が根拠から結論を導いてそれで失敗したならそれでいい。失敗は人を成長させる。勝負で負けることは恥ずかしいことではない。




「管理をする者は、絶対に結果論で部下を叱ってはいけない。」




この言葉が大事なのだ。