今日で全てが終わる

久しぶりに、見た自分の高校時代はもはやかなり自分の記憶からは薄れていた時代だった。


その当時作られたある動画を見て、自分の辛い一年を思い出した。



2年のときの公式戦で当たった東海大高輪台との試合のスコアボードの写真はちょくちょく見ていた。7−4で負けたが勝てた試合だった。その写真の裏には「この悔しさをバネに」と書いてあった。

それがあったからこそ、あの1年死ぬ気で頑張れた。怪我もしたし、入院もした。手術もした。今でも、OBの間の何人かは、「あのとき、怪我をしなければ」という声はある。自分でもそう思う。

その結果、今でもレッスン中に肩が痛くなることだってあるし、トレーニングでは肩は極力避ける。やっても、軽くパンプアップさせるぐらいにとどめる。

今から考えると当時は痛みとの戦いだった。自分の短い10年ちょっとの野球人生の後半1年は肩の怪我と戦い、持病と戦い、そしてつまりは自分と戦っていた1年だった。


その動画は「春夏秋冬」が流れながら、過去の野球部の写真が貼ってあった。悔しい敗戦から1年たったあの試合。歌詞に「今日で全てが終わるさ 今日で全てが変わる」という部分で少し感慨深いものがあった。

結局その日に自分の野球人生は終わってしまった。でも自分があの日を思い出すと、少し涙がでそうになる。



暑い日だった。今まで大会は全て雨だったのに、その最後の夏の大会だけは雲ひとつない晴れだった。自分の野球部の監督はすごい雨男だと話をしていて、実際に自分のその最後の大会まですべて雨だったり、天気が悪い中やっていた。

大会前、入院して軽く騒がれもし、いろいろ辛いこともあった。でも当時の顧問の先生がついこの前言っていた話だが、あの当時、主戦の自分が練習に参加できなかった頃、みんな口々に「あいつが帰ってくれば」と言っていたらしい。その当時は知らなかったが。
持病から復帰したのはいいが、肩も壊している状態で調子は最悪だった。2回練習試合を行ったが、1試合目は打撃も最悪で、投球練習の時点で肩の痛みのあまり涙がでそうになった。「こんな状態で間に合うのか?」と自分に不安になりながら練習した。学校の午後授業をさぼってまで片道1時間半をかけて、治療にいったりもした。自分の肩が自分のものじゃないような感覚に襲われたりもした。

2試合目は先発したが、4回まで投げて10点近く取られた覚えがある。最悪だった。誰もが、「もうだめかもしれない」と思ったと思う。その相手の高校は、実際に自分達が夏の大会で初戦に当たる高校と試合をしていてそのときは11−0で負けたと言っていた。そんな高校相手に4回10失点は誰もが絶望したと思う。

練習の無い日に、代々木のあたりにある、小さい公園に行き、壁に向かって球を投げた。フォームチェックのためにビデオもとった。そうして大会前日を迎えた。

監督は前日に俺を呼んだ。そしてこういった。「明日はお前に任せる」


自分達の監督は調子の悪い選手は絶対に先発をさせない。ここ最近、OBとして大会観に行くと、エースじゃない奴が先発していることが多い。話を聞くと、1週間前に風邪を引いていたから万全じゃないと予想してエースは後に投げさせることにしたとかがよくある。いい意味で信用していないことが多い。
でも、自分のときは他に3人投手がいたが、一番調子の悪い俺を先発にしてくれた。監督にとっても、心中するつもりの選択だったに違いない。

そして迎えた当日の朝、身体は程よい重さだった。身体が軽い!っていうのはかえって調子がよくない、少し疲れているぐらいのほうがいいのは自分の3年間で学んだことだった。

大田スタジアムについたとき、前の高校が試合が始まったばかりだった。自分は1回の表だけ見て、外に出た。

着替えて散歩がてらに少し走った。照り返しが強くすぐに汗をかいた。その身体をさめさせないようにウォームアップを続けた。

途中で、バナナとヨーグルトを食べた。それを食べているとき、「やっとここまできた」と心の底から思った。辛いことが続いた、最後の1ヶ月。だけど今日で自分にとって最後の戦いが始まる。ここで勝ち、そのまま甲子園まで・・・。


先攻で、始まった試合は相手投手の力量がはっきりとわかった1回表だった。さすが東京一押し選手に名前が上がる投手だなと感じた。だが、まだ始まったばかりだった。


自分がマウンドに立ったとき、周りの風景は今でも覚えている。自分はこの場に立つために、3年間努力をしてきた。そして涙を流してきた。2年のときも背番号は1だったが、先発ではなく、途中からリリーフだった。でもここで渋谷のエースが夏では初めて先発する。異様な空気の中、自分は投球練習を始めた。ウグイス嬢に自分の名前が呼ばれた時、何度このイメージをしたことかと思った。

そこからはもうほとんど覚えていない。覚えていることは、何とか抑え、ベンチで休憩をして、いつまでも続けばいいのにと思ったことだ。


2−1で迎えた7回裏、痛恨の失点をしてしまった。犠牲フライで加点。これで3−1。なおも2死2、3塁。バッターは4番。最後まで逃げたくなかった。こんな最後の試合で敬遠なんか策をとりたくなかった。最後まで強気で攻めた。カウント2−3になった時、ショートのキャプテンと目があった。ランナーがいたので、いつもなら牽制のサインをだしてくるが、昔「勝負時に牽制なんかさせるな」と怒ったことがあった。それを覚えていたのか、どうかはわからないが、そいつと目があって、そいつはサインを出さずにうなずいた。声も出していたとは思うが、応援の声と、周りの声で、何をいっているか聞こえなかった。
深呼吸をして、投げた1球は外角低めの一番いいところに決まり、空振り三振をとった。ピンチをしのいだ。

覚えているのはそのぐらい。あとは最後のバッターになって、急に涙が溢れてきて、うずくまったのが自分の高校野球の最後。でもそのときは大泣きしたが、最後の応援団への挨拶ではもうないていなかった。これも後で知った話だが、意外なことに監督が応援団の前で泣いたのはびっくりした。もう10回近く夏の大会に参加しているが、おそらくこれは最初で最後であろう。そのぐらい監督も悔しかったのだと思う。

最後に監督から言われた言葉は、「辛いことも沢山あったろうけど、最後の大会は本当にお前の3年間の集大成だった。よく頑張った。」といわれた。


いろいろあったが、自分は最高の高校生活を送れたと思う。そしていつか最近のことも、いつか今日のように語れる日が来るのだろうか。自分は今でもあの時の延長線上を歩み続けている。